![](http://marooon45.com/wp-content/uploads/2021/09/IMG_7334.jpg)
自然との一体感について
最近読んだ『海辺のカフカ』の1シーンで四国の森の中を主人公が歩き続けるという描写があるのだけど、歩みを進めるうちに森と自らが一体化して、森の動きが自分そのもの(の心情)に感じられるといった内容が印象に残っている。最近仕事でSDGsとか環境負荷低減みたいなことに強く関わっているからか、自然とか環境とかそういうものに興味関心がある。僕はもともと埼玉の秩父の方のど田舎出身で放課後は近所の山が遊具だったし、社会人1〜2年目は長野県に赴任していて休日に誰も行かない山奥に車を走らせたりしていから、経歴として自然との親和性は高いと思うんだけど、東京での暮らしの中で自然に触れ合う機会が薄まった今だからこそ、改めて自然と自分との関係性について考えてたい。
広くいえば僕たち人類は自然の一部だ。紀元前以前から自然とともに暮らしており、世界はもともと自然という土台の上で成り立っている。昨今の環境を守ろういう活動とか、自然を観光の「資源」として扱うのに対しては、どうしても自然を「消費する対象」だったり「守るべき存在」のように、人類と自然が対等・もしくは自然が人類に対して対等以下の存在に扱われているように感じられて疑問だ。僕たちは自然が成り立つ上でのあくまで付属の一部だし、自然は僕たちが生きる上で同時に成り立つ一部だったのではないだろうか。自然は僕たちの外部にあるものではなく、僕たちの内部にあるのだ(または僕たちは自然の内部にある)。自然を守るのでは無く、地球を守るのでは無く、「僕たちを守る為」に、失われる・または傷つけられる自然に目を向ける必要がある。資本主義社会とか東京のコンクリートジャングルで暮らしていると、自然との接点が少なく上記の感覚が鈍ってくるけれど、元来自然は僕たち人類と同時に捉えるべき対象だし、見えていないだけで今現在ですら自然が生み出す様々な「生」の上に僕たち人間社会は成立しているのを忘れてはいけない。
上記は物理的な自然と人類の関係性が綴ったが、精神的な自然と人類の関係性について考える。先日山形旅行をした際の旅路で通った何の観光名所でもない森で車を止めて深呼吸した時、荒川の河川敷で夏の虫の音を聞きながらランニングした時、自然との一体感を思い出すことができた。僕は別にヴィーガンでもないし、普段から環境負荷に気を使っているわけではなく、自然に対して高い敬意を払っている訳ではないんだけど、ここで言いたいのは僕らは人間社会を生きる上での文化形成や、利便性に捉われ、本来の有機物としての動物としての自然性みたいのものを忘れてしまったということである。今僕の足元にある土や公園に生えている草木、流れる川の水、全てが僕と同じ自然であり一体であると感じた時に、少し自分という存在が大きいものであるように感じられ、存在価値があると思える。そんな話を飲みながらしていると、君は悟りでも開くのかって言われるけど、そんな大層な話をしているのではなく、あくまで自分という動物のルーツを認識した時、気分が少し大きくなって楽に生きられるんじゃないだろうかということ。愛する彼女を作るのもいいんだけど、自然と一体となるもの悪くない感覚で、一人キャンプとかにハマる人はそういうのを感じるのが目的なんじゃないだろうか。僕たちは孤独でなんかなく、大きな自然といつでも一体でいれるのである。
![](https://i2.wp.com/marooon45.com/wp-content/uploads/2021/09/IMG_7334.jpg?resize=640%2C320)
1ビジネスマンとしてSDGsとか環境負荷低減についてあくせくして働いている僕は、Co2排出量を〇〇%下げましょうとかをよく言われるんだけど、そういった行動ありきの目標を盲目に掲げるのではなく、今一度、自然を守るべき大前提の理由とその行動原理を考えないといけない。僕たちは靴ズレが痛む時自らの肉体的な一部である”かかと”に絆創膏を貼るのと同様に、物理的・精神的一部である自然に対しても、傷んでいるという現状があるのであれば何ができるか自分ごととして考えなければならない。