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「パクチー好き」から考えるサブカルの楽しみ方について

会社の近くに多国籍料理屋があって昼休みによく食べに行く。その店にはカオマンガイっていうメニューがありパクチーを乗せるかどうか、または大盛りにするか選べる仕組みになっていて、だいたいその店に来ると皆はパクチーが食べれる?という「パクチー論争」になる。僕と同様にサブカル好きの先輩と昼飯を食べに行った時に面白い話を聞けたのだけど、その人曰く「俺みたいなサブカル好きはパクチーは絶対食べれると思って、昔自信を持って注文したら、カメムシの味がしてあれだけはマジで食えなかった」とのこと。僕は心の底からああいうアジアのエスニックな風味(トムヤンクンみたいな)のは好きだと思っていて、パクチーも大盛りで注文するので、その時は「僕は本気でパクチーが好きなので本当のサブカル好きですね」と答えたのだけど、確かに言われてみれば「パクチーが好き=パンピーが嫌いな癖のある味わいも分かる人間」というサブカルマウントを無意識にとっている気もしてきた。後になって、マウントを取りたいが故に実は少し無理をしてパクチーの大盛りを注文をしているんじゃないかと、少し不安になってしまったのだ。以前「花束みたいな恋をした」の感想記事でも書いたけれど、僕らのようなサブカル好きな人間は特に(全員が全員では勿論無いと思うけど)一側面として「パンピーとは違うんだぞ」というサブカルマウントをとってしまい、無理をしてサブカルコンテンツを消費したり、そのような自分をアピールし寒い格好をつけてしまっていないだろうか。本記事では上記のような、パンピーとの違いを醸し出したいサブカルマウンターとしての僕の反省と、理想的なサブカルの楽しみ方を述べていきたい。

まず一つ述べておきたいのがここで言うサブカルマウントの定義は、音楽・小説・漫画・ゲーム・映画等々のコンテンツの消費行動について「これだけ特殊なものを消費しているんだぞ」と言った風にマウントを取る行為に限った話ではなく、食べ物やファッション、インテリアからライフスタイルまで生活する上での「特殊性のある行動」も当てはまる。共通しているのは万人が好んで取らないような行動や消費を自らの特殊性の演出のために、無理をして好きな風を装うことである。

例に出した方が早いと思うので、かなり卑屈な目線にはなるが、世に溢れていそうなサブカルマウントをリストアップしてみる。

・本当はking gnuが好きなのにLINEミュージックの設定をよくわからんアングラなヒップホップにする

・絶対乗ってないのに、大学の講義にリュックにスケボーをぶら下げて出席する

・大学の新歓コンパで、皆がカルピスサワーを頼む中、焼酎の水割りを頼む

・めちゃめちゃ仕事遅いのに、出社時は右手にホットコーヒーと左手にカロリーメイト

・変なデザインや誰も知らないバンドTシャツを旅行に着てくる

・和菓子と日本茶が好きです、白湯を飲んでますを無駄にアピールする

・相撲観戦が趣味です  …等々

いろんな人を敵に回しそうだけど、上記のような人は普通の大学生活や社会人生活を営んでいればゴロゴロいたと思うし、僕自身にも当てはまっていたりもする。自分の特殊性の演出のために、本当に好んで消費しているのでは無く、好きな風を装いマウントをとってしまうのは恥ずかしいからやめていこうと思う。お酒のマウントなんかでは、最近西村ひろゆきのYoutubeライブ配信での「酒は酔っ払うために飲む物で不味いもの。お酒が美味いといっている人は嘘をついており、お酒が美味い=アルコールを感じにくく、飲みやすいということである。」という言葉に共感したと同時に、自らの行動を反省した。僕なんかも刺身と日本酒はやっぱり合うね〜とかつい言ってしまうんだけど、本当は口呼吸で無理して日本酒を一気に飲んでいるし、酒なんてビールとハイボールで酔っぱらえればそれでいいのである。

https://www.youtube.com/watch?v=jQpWeUhiZao

ただ勿論上記の卑屈すぎる目線には反論もあると思う。本当はそんなに好きでも無いのに好きな風を装って特殊性を演出し、サブカルマウントを取ってしまう行為【好きでもないのにパクチーの大盛りを頼む行為】を批判・反省してきたが、本当に好きでパクチーを食べる人間もいるし、本当によくわからんアングラなヒップホップが好きなやつもいるし、本当に焼酎の味が好きなやつもいるのではないかという話だ。そういう「本当に好んで消費している」人間を否定するのは避けないといけないし、自らにおいても本当に好きで興味深く消費しているのであれば、自信を持って好きと言うべきである。大事なのは特殊性のアピールのために嘘をついて好きな風を装うことはやめることと、他者のサブカルの楽しみ方を「マウントを取っている」と安易に否定せず、尊重するということだ。本当に好きなものをシンプルに楽しもうという姿勢を自分自身も他者においても尊重していきたい(卑屈な僕はこれがどうしても難しい)。

上述の理由から本記事では、理想的なサブカルの楽しみ方として「自らの知識量や経験に奢ることなく、また他者の知識や経験の浅さを卑下することなく、自分がシンプルに良いと思った物をシンプルに良いと感じよう」ということを一つ提言したい。人より自分が秀でているから(知識・経験が深いから)そのコンテンツをより楽しめているんだという寒いマウティングの姿勢を無くしていこう。以下の引用は、最近教えてもらった言葉なのだが、芸術を楽しむのに前情報も後情報も自らの知識・経験も要らなく、あるがままに良いと思ったものを消費しようという考え方だ。

私たちは知識の多寡と鑑賞力の優劣を混同してはいないでしょうか。たくさんのことを知っているからといって、それだけですぐれた鑑賞ができるわけではありません。たとえシンプルなことであっても、自分で何かを感じたり、気づいたり、考えたり、刺激を受けたり、感動したりすることこそが美術鑑賞の角なのだと、おばあさんは私に教えてくれました。

芸術がわからなくても美術館がすごく楽しくなる本』(藤田令伊著、秀和システム)

また、さらにもう一つのサブカルの楽しみ方についてもこの際だから提言しておきたい。音楽ではよくスルメ曲と言ったりするけれど、理解できなかったものを理解するという行為も一つのサブカルの楽しみ方だと思っている。例えば村上春樹の幻想系の小説なんかは、何を言っているのかよくわからないことが多いのだけど、著者が何を言いたいのかを探す行為が実は面白かったりする。現代アートの抽象画なんかでも同じで、何を表現したいんだろうと、画家の生い立ちから予想してみる行為が楽しい。90年代以前の洋楽もその時代の社会情勢からその音楽が生まれた、という背景から分析してみるのも面白く、上記の事柄はその「なぜ」がわかった瞬間がとても満足感がある。サカナクションの山口一郎が下記の動画で「探す遊び」という言葉でインタビューで話しているが、受動的にコンテンツの消費する「浴びる遊び」ではなく、能動的にコンテンツをディグり、その良さを分析する「探す遊び」もサブカルの楽しみ方の一つであることを最近特に思っている。

話を戻すと、パクチーを食べれないからといって”えせ”サブカル好きでは無いし、パクチー大盛りを頼むからといって「それを自らの特殊性の演出を目的とした、好きな風を装う行為でなければ」サブカルマウントを取っているわけではない。素直に好きなものは好きなものとして消費行動を楽しむのが理想で、嫌いなのであれば、無理をせず消費しないという選択肢も問題ない(また他者の消費行動を尊重するのも大事だ)。さらに言えばパクチーは不味いけれど、努力をしてパクチーの良さを分析をして消費するのも良いサブカルの一つの楽しみ方なのだ。大切なことは自らが良いと思ったことを他者や何かと比較することなく、素直に良いと感じる姿勢なのである。

ここまで書いてみて、冒頭に戻り、僕という人間が「パクチーがシンプルに本当に好きなのか?」「好きでは無いのに、好きな風を装いサブカルマウントをとっているのか?」「はたまた、なぜパクチーが流行っているのか分析するために消費しているのか?」正直よく分からなくなってきた。月曜夜にパクチーについて考えるのは難しい。

投稿者

teramaro4005@gmail.com
江戸川区に住むメーカー営業職に勤める25歳男です。捻くれてます。

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