![](http://marooon45.com/wp-content/uploads/2021/03/IMG_5147-1.jpg)
生きる意味を探すことが生きる意味
僕は基本的にはネガティブな人間なので、何か嫌なことがあったり逆に楽しいことが無かったりするとすぐ「死にたい」と思う。実際に本気で死のうと思ったことは無いので、所謂ファッション鬱なんだけど、この世は常に生きづらいだとか、頑張っても生きる意味なんて無いとか、3時間ごとぐらいに考える。だから、死なない為に日頃から生きる意味を探している。ポジティブな世に言う模範的な人間は「幸せになる為に生きよう」とか「楽しむ為に生きよう」とかそんな道徳の教科書に書いてあるようなことを言うけれど、「幸せ」とか「楽しい」という感情はあくまで”主観的”で”基準の曖昧な指標”であり、一般化して考えることではないと個人的に考えている。僕自身に置き換えて考えてみても、そのようなポジティブな感情は「努力しないと認識することができなく」また「時間的には一瞬で過ぎ去ってしまうもの」だと感じてしまう。例えば休日に温泉旅行に行った際、ゆっくり露天風呂に入っている時に「今この瞬間を幸せだと感じようと努力をして」やっと幸せを噛み締めることができ、それでいて風呂から上がってしまうともう既に幸せと言う感情はどこかに行ってしまう。つまりは努力をしないと感じられない・かつ時間的に一瞬で過ぎ去る「幸せ」や「楽しい」という感情そのものは、僕個人には生きる意味になりえないのだ。だから、引き続き生きる意味を模索する。
![](https://i1.wp.com/marooon45.com/wp-content/uploads/2021/03/IMG_5147.jpg?resize=640%2C359)
知り合いに自分では生きる意味が分からないから「他人に生きる意味を与えること」を生きる意味にすると言っている人がいた。これも道徳の教科書に乗っていそうな模範的な考えだけど、個人の主観として「幸せ」とか「楽しい」を感じることを生きる意味とするよりかは、指標がはっきりしていて一定の納得感がある。ただ僕に関して言えばそんな利他的なことを、生きる意味の第一にできるほどできた人間じゃない。あくまで世界は僕が感じるからこそ存在していて、僕が感情を持たなければ世界は存在しないことに等しい。知り合いも「他人に生きる意味を与える(た)こと」を「自らが認識し自分の存在価値を見出す満足感」を生きる意味と捉えているのではないか。どちらにせよ、僕のような世界や他人などどうでもよくて自己中心的な人間には、他者の感情に委ねられた生きる意味は、生きる意味になりえない。「我思う、ゆえに我あり」である。
話を少し変えてしまうけど、最近見たアジカンのリライトのyoutube上のライブ映像がすごい良かった。
Cメロの「芽生えてた感情切って泣いて」という歌詞をまるでASMRかのようにか細い声でゴッチと観客が歌い、ラストサビで大爆発するという内容なんだけど、見事なゴッチの煽りでラストサビで強いカタルシスを感じる。この動画とはちょっと角度がズレるが、動画と同じ視点で「苦しいこと」→「楽しいこと」の緩急って普段の生活においても、より物事を情緒的に感じられるのは常日頃生きていたら誰もが感じていることだと思う。例えば大学受験で勉強詰めの毎日で苦しんだ後の志望校の合格通知だったり、めちゃくちゃ尿意を我慢した後の放尿だったりとか、仕事を1日頑張った後のビールだとか。苦しいことを乗り越えた後の解放感はより物事を情緒的に感じることができる。最近生きていて一番感情の起伏を感じられたこの「感情の緩急」をもう少し分析してみた時、解放されたという「楽しいこと」は時間的に”点”であるのに対し「苦しいこと」は時間的に”線”であり圧倒的に長く、実は「苦しいこと」の方に感情の起伏の正体が隠されているのではないかという結論に至った。考えてみれば物事をより苦しめば苦しむほどに、解放された後の「楽しさ」は倍増するし、結局のところ「苦しみ」とは「楽しみ」のためのスパイスなんかではなく、感情の起伏そのものであるということに気づいた。リライトに関して言えば、ラストサビの大合唱がカタルシスの正体なのではなくゴッチのCメロの煽りこそカタルシスの正体だったということだ。
「楽しいこと」→「楽しいこと」の緩急においても同じことが言える。例えば汚い話ではあるけども、自分磨きをする為に好みの動画を探している時が一番楽しかったりするのは、男性にはあるあるの経験なのではないだろうか。自分磨きというその行為以上に、実は動画を探している時の方が興奮している気がする。ほかにも欲しいガジェットを Amazonで探している時の方が、自宅にガジェットが届くよりも楽しくて、Aamazonの梱包されたままの段ボールが自宅に転がっているガジェット好きは僕以外にもいるはずだ。何が言いたいのかというと、人間にとって「何かを達成した瞬間」より「何かを達成するまでの過程」の方が時間的に長く、楽しくても・苦しくてもその過程こそがまさに「感情的になること=生きることを感受できる」ということなのではないだろうか。デルピエロとトッティのインスタライブ動画で、「ここまで成功することの確証がなくても、キャリアを0からやり直したい」というトッティの発言があったのだけど、ローマのレジェンドと呼ばれる地位を築いたトッティですら、CL優勝という成し遂げられなかった成功を目指して、成功するとは限らないサーカープレイヤーとしてのキャリアを歩むという過程を、もう一度やり直したいと言っている。
ここまではあくまで「成功体験」よりも「その過程」の方が、時間的にも長くかつ感情的に感じられるということを話してきたのだが、「その過程が生きる意味になりうるかもしれない」ということを話していきたい。上述したように、僕は「自分が物事を感じなければ世界は存在しないに等しい」と考えている。例えばコーヒーは苦くて不味いし、煙草は臭いしヤニクラで感覚が鈍るんだけど、その負の感情を自分自身で認識したときに「僕は生きているんだ」と、世界が存在することを客観的に感じられる。酒にしたって同じだし、薬にハマる人も同じ理由だと考える。苦しいことは辛いし嫌だけれど、苦しいと感じることができるからこそ、自分は存在していて、自分自身を認識するからこそ、世界が存在していることも認識する。逆にいうと、死んでしまったら「苦しい」という感情すらも感じられなくなり、世界が消滅してしまうのである。世界が消滅してしまうほうがマシだ思えるほどの「苦しいこと」もあるという反論が来そうだけど、そういう人にはもっと俯瞰的な視点で考えて欲しい。「世界が消滅してしまったほうがよいと思えるほどの苦しみ」という強い感情が、自分自身で抱けらるのであれば抱けられるほど、自分という存在は強く認識でき世界はより鮮明で強い存在感を持つのではないか。というのは捻くれが度を越してきているのだろうか。自分の感情機能が(これは別に苦しみでなくても、楽しみでもよくて)さらに奥深く、興味深いものとして、客観視ができるのであれば、苦しい・辛いという感情は世界の輪郭を鮮明にし「世界を存在させる」という自分という人間の存在価値を強める。そしてその感情機能は、ものごとの「成功体験」でなく、「その過程」により強く感じることができるのである。「過程」こそが生きる意味なのだ。
小さい頃読み聞かせで読んでもらった本に「ものぐさトミー」というものがあって、よく覚えている。起床から朝食、シャワー等々、人間として必要な生活は全て機械が自動で行ってくれ、ベットまでの階段をひたすら登ることで1日が終わるという特殊な環境下に住む主人公の話である。自動化され「何か物事を達成するための過程」が無ければ、意思や感情が意味を持たなく(苦しいことも楽しいことも無く)、それこそ生きる意味が無いに等しい。大事なのは何か物事を達成しようとするまでの過程であり、そこで発生する「楽しみ」や「苦しみ」という感情こそが世界の輪郭を鮮明にし、生きる意味になるということだ。本記事の書き出しに戻り、もう少し俯瞰的かつ具体的に言い換えると『「生きる意味を見つける」というその行為(過程)こそが、楽しくても苦しくても生きる意味である』と捉えることができるということだ。きっと僕は死ぬまで永遠に生きる意味は見つけられないのだろうけれど、生きる意味を探すというその過程を「楽しみ」や「苦しみ」という感情とともに味わいながら生きていく。