生きる

愛について考えてみる

Jpopはラブソングばかりで共感できないとずっと思って生きてきた。唯一歌詞に共感しながら聞く方法としては”君”とか”あなた”を親に変換して聴くこと。西野カナの会いたくてなら、思春期男子が親に会いたくて震えちゃうんだから流石に無理がある。だからJpopは嫌いだった。

大学卒業まで本当の意味で何かを愛することができないと思ってきたんだけど、それはつまりイコール年齢というやつで、今まで恋愛をしてこなかったから愛(=恋愛 ※男女のイチャコラ)を知らない僕は愛を理解できないと思っていた。だけどその考え方も大学4年〜社会人の現在と少しずつ変わってきた。愛とは別に男女のあれこれだけでなく、友達や家族に対する愛やペットに対する愛、もっと言えば応援しているスポーツチームに対する愛や、持っているガジェットや服への愛も存在する。愛の定義はもっと広いもので、その中の恋愛を理解できなくても良い。高校生でキラキラの青春の恋愛を学べなかった僕は、まずはその他の愛を理解してから、いつかそこに異性への恋愛的な愛を当てはめもいいんじゃないか。

愛について僕の中で少し考え方が変わったのはアジカンの新世紀のラブソングを聞いてからだった。もともとこの曲は高校時代から聞いていたけど、大学卒業前の所謂モラトニアム期間により深くコンテンツを消費しようと思った時、深くその歌詞を理解することができたと思っている。

新世紀のラブソングにこんな歌詞がある。

朝方のニュースでビルに飛行機が突っ込んで
目を伏せるキャスター そんな日もあった
愛と正義を武器に僕らは奪い合って
世界は続く 何もなかったように

ほら 君の涙 始まれ21st
恵みの雨だ
僕たちの新世紀

確かな言葉が見当たらない
言い当てる言葉も見当たらない
それでも僕らは愛と呼んで
不確かな想いを愛と呼んだ

本当のことは誰も知らない
あなたのすべてを僕は知らない
それでも僕らは愛と呼んで
不確かな想いを愛と呼んだんだ

息を吸って 生命を食べて
排泄するだけの猿じゃないと言えるかい?

これの僕なりの解釈なんだけど、911で多くの人が死んだけど世界は何も無かったかのように進んだ。その中でも、誰かの死に対して涙を流すことができるのが人間で、その感情こそ愛なんじゃないかとアジカンは歌ってるんじゃないかと考えている(または人間なんだから誰かの死に対してなんの感情も持たない現代人への警鐘)。こういう感情って言葉じゃ表せなくて例えば、誰かの死に対して喜んじゃいけないという「不謹慎」「自粛」「同調圧力」とも違う。素直に自分の感情から涙を流すことができるのが、人間が持っている愛という感情なんじゃないかと考える。僕らは命を食べて排泄するだけの猿じゃなくて愛を持つことができるということだ。別にこれが誰かの死に対する感情じゃなくてもいい。アフリカの飢餓に苦しむ子供達や日本だって何かに苦しんでいる人々は沢山いる。そいう他者に対して可哀想とか言う感情でなく、何かを思うことができることができればそれは愛なんじゃないか。ただここで出てくるのは「何か」はどうしても言語化できないということだ、アジカンでさえ不確かな想いと言っているように。

新世紀のラブソングの歌詞を例に出すと、どうしても不幸な人々に対しての愛と捉えられそうだけど、ポジティブな愛だってちゃんとあると思う。

最近何もかもつまらなくなって郊外の夜を歩いていたら、冬の終わりの生温い空気感と、自宅に帰って各々の生活を過ごす人々の灯と、夜の誰もいない公園と、なんとも言えないあの土日の夜の郊外の臭いと、その感じが懐かしいと感じた。まだ子供だった時、もっと世界(社会)に興味があってより敏感に世界を感じることができたとき、あの空気感を心地いいと思っていた気がする。世界を愛していた気がする。別に特定の異性を愛せなくてもまだいい。まずは僕らが生きているこの世界をもう一度愛せるようになってみたいと思った。

世界に対する愛といえば、ふと浮かぶのが、小学生の時のプール終わりの教室を思い出した例のツイートである。

この感情って学生時代を過ごした誰しもが共感できると思う。あの景色を脳裏に浮かべると心地よいと感じるんじゃないだろうか。その感情を僕は愛と定義することにした。

少し世界に対する愛と対象を広げすぎた。人に対する愛だったり所有物に対するポジティブな愛はどのように分析ができるか考えたい。よくある恋愛映画なんかで言ったら自分を犠牲にしてまで誰か(または何か)のために行動することなんかが愛に描かれがちだけど(例えばアルマゲドンでお父さんが娘カップルのために宇宙に残って死ぬみたいな)そんな犠牲心がないと愛と呼んじゃいけないんだろうか。恋愛において自分以上に異性のために行動できるのは、素敵だし強い愛だと思えるけど、愛というのは強弱を測るべきものなのだろうか。じゃあどこまでが「好き」でどこからが「愛する」なの?最近買った僕のMacBookAirを僕は愛しているのか?強弱でなく感情を抱く頻度(例えば一日に対象を想う頻度等)で愛は測れるの?今の僕にはやっぱり愛というのは言語化して定義づけすることはできないけど、自分以上に対象を思う必要はないし、やっぱりアジカンの言葉を借りて猿じゃ持てない人間独自の感情とかいう抽象的な表現になってしまう。僕は自分でDIYしてカスタマイズした7畳の部屋を愛していたいし、沢山買ったガジェットを愛していたいし、仲のいい友達を愛していたい。そこには物理的な好きという感情ではなくて人間的に心地よいという凄く抽象的な感情=愛という説明が今の時点での限界値なのだ。

ピース又吉が何かのインタビューで「街中を歩いている時、自分に吹いてくる風に愛を感じることができる」と言っていたような気がする。大学を卒業して彼女と呼べる存在ができ、また失ったが僕だが、未だに恋愛は理解できていない。ただ世界やその他人・モノを又吉のようにより沢山愛せる人間になりたいと思う。愛を持てるのは人間の特権なのだから。

jpopは未だに愛することができないけれど。

投稿者

teramaro4005@gmail.com
江戸川区に住むメーカー営業職に勤める25歳男です。捻くれてます。

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