生きる

自己顕示欲との戦争

旅行に行った時に、写真を撮ってSNSにアップロードするために行動したくない。僕が最初にSNSに触れたのはガラケーでmixiをやった中学時代で、そこからTwitter・Facebook・instagram、最近だとTik tokまで様々なSNSが2000年代から世に普及してきた。SNS社会と呼ばれる昨今ではSNSが大きなメディアとして力を持っていて、職場でもマーケティング的な提案をするとき市場調査でinstagramのハッシュタグを使うぐらいだし、世の合わせ鏡としてSNSは十分なメディア機能を持っているのは事実だ。だけど僕がそのメディアの一員になりたくない。少なくとも、そのメディアになること組み込まれることを優先して自分自身の持つ存在価値や感情機能を失いたくない。

良いことがあったときや美しいものを見た時に、誰かが共有をして「イイネ」が付かないと、価値が無いことと同じになってしまうのは悲しい。例えば富士山を登山したとして、自らの努力で、汗水垂らして頑張って頂上まで上り詰めた時に最初にすることが、頂上からの景色をinnstagramでストーリーに上げることだったら悲しくないか。まずは、登頂したことの達成感とそこからの景色を自分の中で美しいと消化すべきだと思う。生で見た情景や、身に起こった出来事を自分の中で価値のあるものとして認識していきたい。誰かが良いと言ってくれるから良いのではなく、自分が良いと感じたから良いものとして記憶に刻みたい。でないと感情機能を持つ人間としての自分の存在価値が無いのと等しい。他者からの評価がないと自分が凄いとかこれは美しいと感じられないのであれば、自分は一体何者なんだろう?仲の良い先輩が捻くれすぎてinstargamを辞めたんだけど、非常に気持ちがわかる。

何で(僕を含め)世の若者はせっせとinstagram等のSNSで共感を求めてしまうのか。一言で言ったら「自己顕示欲」や「承認欲求」だと思う。他者に認められないと自分の存在価値や自分が触れたものの存在価値が認識できなくなっているのだ。自分が頑張って得た結果っだら、誰がなんと言おうとも「凄い」し、自分が美しいと思った光景なら誰がなんと言おうとも「美しい」。それだけで満足できずに他者の共感を求めてしまい、いつの間にか自分がどう思うかより他者からの共感を得ることが第一の目的にすり替わってしまう。Instagramを見ていて気持ちが悪いのは、そういった他者からの共感が第一目的であることが目に見えて分かる投稿達。投稿者自身がどう思ったのかのではなく、投稿を見てどう思ったかを僕に求められてきて気分が悪いし滑稽なんだ。

僕でも上記の自己顕示欲や承認欲求はある。ブログを書くのも、誰かに見てもらいたいという自己顕示欲・承認欲求の上での行動だ。誰かに対して物事を発信し共感してもらいたいという自己顕示欲や承認欲求を完全に否定するのでは無く、そう言った欲求(他者からの共感)が第一の目的にならないように今後も発信していきたい。自己顕示欲との戦争は今後も続いて行く。

投稿者

teramaro4005@gmail.com
江戸川区に住むメーカー営業職に勤める25歳男です。捻くれてます。

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